VIRGIN HARLEY |  転職します!芦田 剛史のUSAディーラー・トレーニングダイアリー

転職します!

  • 掲載日/ 2007年03月07日【芦田 剛史のUSAディーラー・トレーニングダイアリー】
  • 執筆/芦田 剛史
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本場ディーラーでハーレーを学ぶ USA Training Diarys 第11回

お世話になったアローヘッドHD
ここから巣立つときがやってきました

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こんにちは、メカニック芦田です。
このコラムもついに10回目を迎えました! これまでご愛読していただいた皆様に心よりの感謝を申し上げます。突然ですが、実は私は今年の挑戦の1つに、「ラスベガスH-D」へ研修先を変えるという目標を掲げていました。これは研修スタートする以前からの目標でした。「アローヘッド(現在のディーラー)」は、私にとって最高とも呼べる環境であり、9ヶ月掛けて築き上げた友情や、信頼は計り知れないものがあります。その大きさの分だけ、外国人メカニックとして信頼してもらうことに苦労したものです。この9ヶ月大袈裟だとは思うのですが、地獄を見たこともありました。自信を失ったことも、認められたことも、自分を誇りに感じたことも、数え切れない出来事がありました。それらを自ら切り捨てて、新しい環境でまた一から同じ信頼を築き上げなければいけない決断は、勢いとは言え、苦渋の決断でもありました。ラスベガスH-Dへの移動は、普通の就職活動と何ら変わることはなく、こちらでは外国人の私にとっては簡単なことではありませんでした。この決断がこれから先の私の人生にとってどういう影響をもたらすのか? いつでもそうですが、一度しかない人生の今だけ通れる一回限りの道です。時間を戻せない人生の、沢山ある選択肢の答えを知れるのは1つだけ。「どうせなら派手にやってやりましょう!」ということで、今回はその前章として、これまでの私の記憶に刻まれた素晴らしい経験をご紹介できればと思います。回想シーンとでも思って、ご覧下さい。

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アリゾナはフェニックス。 カリフォルニア、アリゾナ間を東西に結ぶI-10をフェニックス市街から北に上がること約20分、フェニックス市の北部にあるそのH-Dディーラーは、今回の私の冒険の舞台となった「アローヘッドHarley-Davidson」です。そのお店は、見た目はイカツク、やたら日本人に慣れていて、片言の日本語を使う奇妙? なH-Dフリーク達が営むお店です。お店の近くになると、ハーレーで疾走するライダーが多くなり、店の敷地に一歩入れば、立派な店構えが出迎えてくれるディーラーです。広々としたショールームには沢山のハーレーが展示されており、デカイソファーに座ってコーヒーを飲みながらテレビを楽しめる嬉しいサービスもあります。ソファー傍にはビリヤードが設置してあり、無料でビリヤードを楽しめるのには、入社当初は驚かされたものです。やたらと広いサービスファクトリーは威厳すら漂わせる雰囲気があり、やたらクレイジーで、ぶっ飛んだフロントマンやメカニックが迎えてくれます。恐らく、日本のディーラーに慣れておられる方は、彼らを見て最初に思うことは「絶対マフィアだよ、この人!」でしょう。 けれど、一旦話してみると、見た目とは裏腹なその優しい人柄に、アメリカを感じずにはいられません。

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もし、遊びに行かれる機会でもあれば、「日本人なんですけど…」と言ってみて下さい、きっと「コンニチハ、コンニチハ!」と迎えてくれるでしょう(夕方なのにオハヨウ!と言う人も居ますが…)。迎えてくれなかったら、私に御一報を(笑)。しかしながら、アローヘッドが最初から日本人に好意的であったのではありません。これらのことは、私がアローヘッドで修行する以前に、信頼を築き上げて修行を終えた方たちの功績です。現実的な話をしてしまうと、同じハーレー乗りであっても、日本人がハーレーに乗ることをあまり快く思っていないアメリカ人も存在するようです。「日本人はホ○ダだろ、ハーレーはアメリカ人のもんだ!」と考えている方もいます。ましてや、そんな自分のハーレーを「日本人メカニックに任せるなんて…」。口には出さないまでも、心では思っているんだろうな、そう感じたことは山ほどあります。それらはすべて紛れもない偏見ですが、同じようなことはアメリカだけではなく日本は勿論、世界中であることでしょう。だからといって、それでナーバスになることは一度もありませんでしたが。偏見の無い国なんて存在しないんですからね。しかし偏見の壁も、アローヘッドでの日本人メカの歴史が始まって早4年という期間を経て、徐々に打開されてきました。お店も、お客さんからも、信頼確かな存在として認知されてきているのです。そんなアローヘッドハーレーダビッドソンはアメリカ随一、日本人に優しいH-Dディーラーであることは私が太鼓判を捺しておきます。

どん底で苦しんだ時期もありました
それでも、前に進めば光は見えてきます

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アメリカのH-Dディーラーのサービスマネージメントシステムの特徴として、たくさん在籍するメカニックに対する仕事の振り分けに、担当割り当て制度があることが挙げられます。新人メカニック(就労前の経験問わず)には日本と同じ様に試用期間が課せられます。この試用期間内にあらゆるパターンの仕事が与えられ、この期間中にそのメカニックの得意不得意や、スピード、クオリティー、知識、技術、あらゆる技能を判断評価されるのです。この期間内にある程度結果を残せれば、その後の信頼を得るスピードも格段に違ってくるため、新人メカニックにとってはここが最初の勝負所となります。この段階で辞めたり、クビになる人も結構な数に上り、合理性を重視するアメリカの厳しさを覗わせます。もちろん、その中で難しい仕事や他の人が敬遠する仕事を、涼しい顔してこなしてしまえば、それもしっかり、給与面や信頼に変えてもらえます。

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私の場合ですが、最初の出だしこそは結構な評価を得たのですが、慣れない作業スタイルを無理矢理こなしたため、メッキがボロボロ剥がれて、3ヶ月目には地獄を見ました。それはもう、今思い返しても恥ずかしくて表を歩けないくらいの失敗の連続で、評価もどん底、何度か本気で辞めて日本に帰ろうと思いました。それでも、沢山の人達からの励ましのお陰で、恥を承知でしがみ付くことを決断しました。それからの6ヶ月は起死回生のチャレンジを続けました。問題のあったワークスタイルを、環境や効率の追求からくる焦りを完全に無視し、自分が本当に気持ちがいいと感じるワークスタイルに切り替えることで連発したミスを回避することに成功したのです。私の作業スピードは日本では遅くはありませんでしたが、アメリカではかなりスローです。それでも、日本人らしい繊細で丁寧で心のこもった作業を心がけることで、それ以降は一切のミスも出さず、一番恐ろしい再修理もゼロにすることができました。そして今も、そのスタイルは自分の中で日々進化し続けています。こちらに来て、一日として成長しなかった日はありません。これらの結果は、しっかりと評価に変えていただき、今に至ります。しかし、これらの事柄をラスベガスH-Dでもう一度というのは、流石に骨が折れます(笑)。私がハーレーというバイクを通じて、これまでのアメリカ修行9ヶ月間で経験したことを書いてみることにしましょう。

故障診断修理車両台数:550台以上 エンジンアッセンブリーリビルト回数:12台
フレーム乗せ変え台数:12台
サイドカー組み付け:2台
指名回数:9台
会心の作業:3台
想い出の数:…PRICELESS(笑)

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以上が毎日書いている作業日誌から、目立って記憶に残る物でした。それ以外にも、私の最初で最後のアメリカの大先生、アローヘッドNo.1メカニック カート師匠からは数え切れない程の大切な極秘テクニックを伝授してもらいました。私は生涯、彼に足を向けて寝ることはないでしょう。時にはわざわざ昼休みを削って私を呼びつけ、ダイノマシンの扱いや、EFIのセッティング、ピストン、コンロッド、フライホイールのバランス取りを手取り足取り教えてくれました。旋盤、溶接等などの加工技術についても彼から教えを受けたのもいい思い出です。実は私、人に教わることが大の苦手で、解らないことがあっても人に聞くことは滅多にありません。良くも悪くも理由はいろいろありますが…。でも、カートは違いました。彼の言うことは何故か素直に聞き入れられるのです。諭すように、厳しくもなく、優しくもなく、ユニークで人柄から滲み出るその一寸の奢りもないその人柄のせいか、「この人から教わりたい」そんな気分にしてくれた恩人です。「そんな彼ともお別れか」そう思うと、本当に辛くて仕方がありません。私は生涯彼を崇拝することでしょう。私は、これまで積み重ねてきた努力がハーレーユーザーの安全や安心に少しでも役立っていることを望んでいます。私のモットーは「お客様のハーレーが自分のハーレーと同じように好調であって欲しい」です。この言葉に嘘が無いように、人生と命を掛けてH-Dディーラーのメカニックとして作業に望みます。

ここで得たもっとも大きな収穫
それは技術ではなく良き出会い

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アローヘッドに来た頃、店からの私への信頼は決して大きくはありませんでした。私が異常だと判断した場合でも、店側に信用してもらえなかったことも多々ありました。それでも決して妥協せず、確固たる信念と検証と、理論を展開していくことによって、自身の成功例を1つ1つ積み上げて信頼へと変えていきました。そして友情も同じくして得ることができたのです。アローヘッドで学んだ最も大きな収穫、それは技術でも、経験でも、はたまた学術的なことでもありません。それは“出会い”でした。小さな井戸の中では知る術もなかった星の数ほどの人間ドラマが降ってきて、私はそんな人の生きる道の美しさに、多くの喜びや悲しみを見ました。メカニックの技術を学ぶということ自体は、それほど難しくはありません、努力と継続あるのみです。場所がアメリカだろうと日本だろうと関係ありません。けれど、人から生き方や考え方、価値観を学ぶにはその人に出会うか出会わないかの運でもあります。アメリカでたくさんの人たちから学べたことを大切にして、それを日本に持ち帰りたいと思います。

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最後にアローヘッドの皆が、私のラスベガス行きをどう思っているのか? 「うざい仕事を消化する奴が居なくなる!」、「またいつか戻って来いよ!」、「一緒にやれて良かったよ!」、いろんな言葉をかけてもらいました(笑)。けれど、誰一人として『行くなよ!』とは言いませんでした。どうしてなんだろう? 恐らくですが、アメリカでは人と人との出会いと別れは、それほど重要なことではないんだと思います。誤解されたくないのですが「重要ではない」とは、空虚であるということではありません。彼らにとって別れは「またいつか何処かで会えるから、別に今はいいんじゃない?」ってなもんです。そして、私が最も感心した部分は、個人の決断を決してとやかく言及しないこと。ここにも自由への追求があるのかどうかは分かりませんが、個人が考えて決めたことに対し、都合、不都合抜きで尊重する姿勢には感動しました。私が別れを深刻に惜しんでいると、「折角ラスベガスに行けるのに、ジメジメすんな!」と言って肩を叩いてくれます。「別れは惜しみではなく、出発の喜び」。これがアメリカ流のお別れなのでは、と感じました。皆そうやって、出会いと別れを繰り返し、ひたすら広いアメリカを生涯旅して生きていくのです。 

さて、このコラムが公開される頃には私はラスベガスの空の下で、新しいスタートを切っている筈です。何度も言いますが、技術を学ぶためには場所と環境はそれほど関係ありません。私は学校には一切行っていませんし、アメリカに来ている私より、日本にずっと居て、私より若くて立派なメカニックが沢山います。技術をどう高めるのか、は最後は本人の努力次第ですから。私がラスベガスで手に入れたいモノ…“World Largest Dealer”のサービスマネージメントテクニック! と言ってみたり、深く深く「人生」と「感性」を追求していこうかなと思ったり思わなかったり…。メカニックとして深い人にもなりたいですが、人間として温和で深い人になりたいなと思う私であります。

それでは次回をお楽しみに!

プロフィール
芦田 剛史

26歳。幼少からバイクと車に興味を持ち、メカニックになることを誓う。高校中退後、四輪メカニックとして4年の経験を積み、ハーレー界に飛び込む。「HD姫路」に6年間勤務、経験と技術を積み重ねたのち「思うところがあり」渡米を決意。現在はラスベガスHDに勤務。(※プロフィールは記事掲載時点の内容です)

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