VIRGIN HARLEY |  内藤 学(HDJテクニカルアドバイザー)インタビュー

内藤 学(HDJテクニカルアドバイザー)

  • 掲載日/ 2008年04月08日【インタビュー】

ハーレーインタビューの画像

メカニック=ライフガード
楽しさだけでなくリスクを伝えること

ハーレーダビッドソンジャパン(以下、HDJ)では、体格に自信のない人や小柄な女性でもハーレーを安全に扱えるよう、取り回しのコツや運転時の注意点などをレクチャーする「ゴロリンセーフティー」や、ショーを通してオプションパーツを身近に感じさせる「パーツマンショー」など、全国のイベント会場でハーレーを楽しむためのあらゆる提案を行っている。そんなステージショーで、MCを務めているのが内藤学さんだ。長年のバイクライフで得たノウハウと経験を生かし、どんな人にも安全にハーレーを楽しんでもらいたいという願いから、精力的に全国のイベント会場を駆け回っている。内藤さんは、一体どんな人物なのだろうか。その素顔を伺ってきた。

Interview

ボロボロのバイクを集めていたら
気がつけば60台もバイクを持っていた

ーまずは内藤さんが現在活動している内容を改めて教えてください。

内藤●HDJテクニカルアドバイザーとして、サービスメカニックを育成するためのインストラクターをやっています。それ以外だと、H.O.G.メンバーを対象に救命活動のファーストエイド講習や、イベントでは司会をやることもありますね。

ーメカニックたちを鍛え上げる講師役というわけですね。多彩な活動をしている内藤さんですが、まずひとつにメカニックという軸がしっかりとあるということでしょうか。

内藤●高校生の頃くらいからメカニックを志願していたんです。高校を出ると職業訓練学校に進学し、クルマやオートバイのメカニズムや整備を勉強しました。もともとオートバイをイジるのが好きで、20歳の頃にはオートバイを60台くらい持っていたんですよ(笑)。

ーもしかして大金持ちだったとか…。

内藤●とんでもない。近所の人が勝手に捨てていって、いつの間にか台数が増えていっただけです。ウチは本当に貧乏でした。父は今でいうシンガーソングライターで、20歳で歌手としてデビューしたそうです。ラジオやテレビで父が歌っている声を何度も聞いたことがあります。しかし、売れない頃は人形劇や歌番組の前説などで稼いでくれていた。服は姉のお下がり。身体検査の時、パンツの前が開いていなかったのは、恥ずかしかったな。そういえば小学1年生の時に、父親に自分用のナイフ、包丁を渡されたんです。鉛筆削りで削ると芯が早く無くなるから、ナイフで鉛筆を削れというわけ。鉛筆が短くなると、父が山に青竹を取りに行って、鉛筆に竹を継ぎ足されたほどです。レコード針なんかも竹で作る人だったんです。そういう父に育てられたので、僕も子供の頃から刃物は自分で研いでいました。「道具にも魂が宿る」と父から教わりましたね。貧乏性は今でも健在です。

ーオートバイへの興味はいつ頃から持ったんでしょうか。

内藤●父は愛媛の松山に住むお兄さんからカブをもらって、いつも乗っていました。当時、父はカブで駅まで行って、そこから新宿や川崎の歌声喫茶まで通っていたんです。帰宅すると、カブのシートを「トントン」と手のひらで丁寧に叩いていました。靴にも声をかける人でしたから、今思えばバイクへの感謝の気持ちだったのでしょう。当時、駅には父のカブだけが置いてあって、同じようにシートをおまじないのように「トントン」と叩いていましたね。父のカブに乗せてもらうのが楽しみで、5歳頃からレッグシールドに立って乗っていましたよ。

※レッグシールド:運転席の足もとに装着された風よけ。

ーオートバイを実際好きになった”キッカケ”は何だったんでしょう。

内藤●悪い友達と学校をサボって、畑道で乗ったDAXかな? 16歳の誕生日が来ると原付免許を取っていたんです。当時は三ナイ運動で「オートバイ=悪」という時代でしたから、両親もオートバイに乗るのは猛反対。「保険を自分でかけられるようになるまではダメ」と父に言われました。私は2月生まれなので16歳になるのがみんなより遅くて、友達がオートバイを乗り回しているのを横目で見て、自転車の改造に明け暮れていたんです。フェンダーを外したり、違うサイズのホイールをつけたりして、近くのミカン山で遊んでいました。将来は競輪の選手になるんだって本気で思ったほどです。

それでも16の誕生日を迎えると、親に黙って免許を取りに行っていましたから、本当はオートバイに乗りたかったんでしょう。子供の頃から機械イジリが好きだったので、当然の成り行きかもしれませんね。もう、免許を取ってからはオートバイまっしぐら。友達と一緒になって、山に2台、海に2台、もらってきたオートバイを隠していたんですよ(笑)。親には見つからないように、コーラの1リットル瓶でガソリンを買っては山や海辺を走り回っていたんですが、ある日、父がバス停でバスを待っている時に目の前を通ってしまって…。あの時の父の顔はいま思い出しても笑えますね。もちろん、こっぴどく怒られましたよ。

ーそれでも、オートバイには乗り続けたのでしょうか。

内藤●高校2年生になると中型二輪免許を一発で取り、アルバイトしたお金でホンダ「XR200」を買いました。それからも近所に放置されているオートバイの持ち主を探して交渉したり、山に捨ててあるオートバイを拾ってきたりして、少しずつバイクが増え、19歳の時にいつの間にか60台くらいにもなったんですよ。どれもお金をかけずに動くようにして、そういうのが楽しかったんでしょうね。中華そば店に捨ててあったバイクを直してエンジンが掛かったときは、ゴマ油のいい匂いがしました。残ったゴマ油をオートバイの上に直接かけて捨てていたんでしょうね(笑)。

そんな風にバイクを楽しんでいたんですが、高校3年の冬だったか、町内で火事があった時に幼なじみとバイクで見に行ったことがあったんです。家に帰ると、父がカンカンに怒っていて、そいつと一緒に玄関で正座。こっぴどく叱られました。「オマエは火事を見に行くために、バイクを買ったのか?!」相当凹みました。でも、こんな風に叱られたことがメカニックを目指すきっかけになったのかもしれません。

これほど痛快な教材はありません
今こそ、ティーンエイジャーにオートバイ!

ー高校卒業後は職業訓練学校を経てメカニックになるわけですね。

内藤●堂々とオートバイに乗るにはプロになるしかないって思ったんです。20歳までにプロになる。25歳までに海外で働く。30歳までに独立する。高校生の頃からそうイメージしていましたね。学校を卒業してからはクルマのディーラーで働きはじめました。ミスをするとレンチが飛んできたり、安全靴で蹴られたり、1年目は名前さえ呼んでもらえず「小僧」と呼ばれていました。洗車だけしかやらせてもらえずに、毎日同じことの繰り返し…。「スピードでは誰にも負けない」、「オレはもっとできる」って悔しくて、悔しくて、倉庫のドラム缶をボコボコに蹴ったこともありました。でも、洗車をやるにしても先輩がやったのと自分がやったのとでは仕上がりがゼンゼン違うことに気が付いたんです。

やっぱり自分はまだまだなんだって気付いてからは、トライ&エラーの繰り返し。「もっと早くやるにはどうすればいいか」、「もっとキレイに洗うにはどうすればいいか」って考えてやるようになりました。いま思うと、そういう下積みの経験があって良かったと思っています。

ー厳しい環境ですね。先輩方は一切教えてくれなかったんですか?

内藤●いえ。昼休み、私が自分のクルマやバイクをイジっていると先輩たちがクランクやカム、ポートの削り方なんかを教えてくれていました。厳しかったですが、だんだん私のことを認めて、可愛がってくれるようになっていったんです。給料は全部、工具かバイク。職場でもバカ扱いされていましたね。今はあんなにボロボロの手で、汚らしいメカニックはいないだろうなぁ(笑)。

ーそして海外へ飛び出して行くのですね。

内藤●はい。24歳の時にレースメカニックを目指してオーストラリアへ。何のあてもなかったので、最初は住み込みで働ける田舎の牧場で、大工の仕事に就きました。そこには9人兄弟の悪ガキたちがいたんですが、兄弟のうち3人はクルマが大好きでね。一緒にレースを見に行ったり、ダートで競争したり。ワークショップでは毎晩、エンジンのスワップや事故車を集めて再生するなど何でもアリ。そんな生活から数ヶ月後、オーストラリアのエンデューロチャンピオン、ジョフ・ユーディのショップでメカニックとして働けるようになりました。エンデュ-ロのレースマシンを整備させてもらいましたが、自分でもXR600を手に入れ砂漠地帯を4万キロほど走る経験もしました。

オーストラリアで学んだのは、旧いクルマやバイクを徹底して直し、大事にするということ。特に田舎や島では、日本のような使い捨て感覚がなく、自分が買ったクルマやバイクは、修理しては色を塗り替えるなど大事に乗り続けているんです。ほとんどの人が、簡単な修理やメンテナンスの方法を身につけていました。ドリルを研いだり、コイルを巻き直したり、オルタネーターのブラシを電気ドリルの部品から流用したり、スポークのネジを立てたり…。これまでの貧乏経験が活かされる現場でした。日本の場合、特に4輪ディーラーのメカニックは「チェンジニア」なんて比喩されるほど、効率を優先して部品交換する仕事ばかりになってきています。もちろんそれが悪いこととは言い切れませんし、否定はしません。でも、直せばまだ使えるものを捨ててしまうというのは、貧乏性の私にはもったいないと感じるんですよ。

ー帰国してからはどのようなことを?

内藤●少しして、26歳でライフガードになりました。実は日本に帰ってから、友人が交通事故で帰らぬ人になって。チューニングカーで峠を攻めていた友人は交通刑務所…。スピード自慢の友人は180km/hで転倒し、一生バイクに乗れない身体になっていた…。“SPEED= DRAG”。より強い刺激を求め、快楽を断ち切ることができないのか。この頃は、バイクが罪のある乗り物に思えて、“メカニック”という仕事にも誇りを失ってしまったんです。

ーメカニックへの復帰となったきっかけを教えてください。

内藤●ある日、「GREAT AMERICAN RACE」というアメリカで開催されるクラシックカーレースに出場したい、だからメカニックになってくれ、という人が現れたんです。最初は断ったんですが、たまたま近所の板金職人のおじいさんの話を聞いて、勇気をもらいました。「銃ではなくスパナを持って戦争を戦って来た・・・」という話でした。アジアのジャングルでトラックの荷台で軍用車を直して戦って来たというのです。部品も工具も無いジャングルでの走り続けるための体験談は、リアルで衝撃的でした。

この時期には手が油を欲しがっていたんでしょうね。翌日にエントリーフィー$7000を振り込んで、まずはそのレースがどんなものなのかを知るためにアメリカへ行ってみようと思ったんです。1ヶ月後には何のあてもなく渡米していましたよ。カリフォルニアのレッカー店に住み込みで働けることになり、1930年式のフォードを手に入れました。レースまでたったの2ヶ月でしたが、朝の5時から深夜までレストアとレースのためのチューニングに没頭しました。はじめは周りに呆れられていましたが、パーツを提供してくれる人が現れたり、お金をくれたりする老夫婦もいました。そしてレースは過酷でしたが、なんとかインターナショナルチームクラスで1位になることができたんです。

レース後は、ニューヨークからナイアガラ、デトロイト、カナダを横断し、カナディアンロッキーを超え、カリフォルニアまで約2万kmを走破しました。旅の途中、かつて「日本と戦ってきた」という80代の元米兵という人たちからも激励を受け、サイドバルブで最高速レースに挑んでいた人の話を聞かせてもらうなど、この旅を通じていろいろなことを教わりました。HOT ROD文化に触れ、クルマやバイクでとことん楽しむライフスタイルを知ったんです。アメリカは“OWN RISK=自己責任”という考えが成熟している国でした。日本はアメリカのファッションや乗り物をコピーすることができても、モーター文化においてはまだまだ未熟だと思い知らされましたね。そこで、自分が日本のモーター文化に貢献できることは何かを考え、日本でのファーストエイドの普及活動に携わることを考えたんです。

ー年齢でいうと29歳の頃ですね。

内藤●1993年でしたから、そうですね。帰国後、HDJのH.O.G.スタッフ求人募集があったので、「ライダーへの応急手当の普及」を目的にHDJの門を叩いたんです。面接で初めてお会いした奥井社長には、すぐにご理解をいただけました。それからは応急手当の普及活動はもちろん、メカニックの育成など自分が今までしてきたことを活かせる環境でHDJの仕事に携わることができました。

ーなるほど。メカニックの育成で大切なことはなんなのでしょう?

内藤●私もまだまだ知らないことばかりです。失敗をくり返して来た自分が、言うのもおこがましいですが、バイク好き、クルマ好きには天職かもしれません。でも、どんな機械を取り扱うメカニックでも、「お客様の命を預かる技術職」だと私は思います。その責任はとても重い。昨日の仕事が気になって、夜中に飛び起きたことは何度もあります。使い古された言葉ですが、どんな仕事も「お客様の気持ちになって」、「基本に忠実であるべき」だと思います。退職してしまったHDのエンジニア達からは「金属と対話する」ことを学びました。私自身の経験からは「五感をフル活用」することですね。メカニックは、お客様の声と、H-Dという金属の機械にも、良く耳を傾けなければいけないと思います。

ーメカニックを育てる上で大事なことはなんでしょうか?

内藤●現場のメカニックには年齢や経験を問わず敬意を忘れたことはありません。自分もメカニックの一人として、たまたまインストラクターという仕事をさせてもらっただけのことですから、毎回、彼らには試されています。「H-D社の正しい情報をできるだけ分かりやすく伝達する」のがインストラクターの使命です。プロを相手にハッタリは通じません。自分自身が経験した言葉しか彼らには響かないんです。そのためには「自分自身で走る」、「データと実体験」でアドバンテージをとらないとやっていけませんね。メカニックは生身の人間で機械じゃありません。感情と個性があります。自分自身の経験から、メカニックは頑固で、そして反面、壊れやすい。定期的なフォローが必要なんですね。

ひとりひとりの仕事をよく観察して、気のないヤツにはその場で本気で叱ります。でも失敗は責めません。モチベーションは人それぞれで、叱って火が着く人もいれば、腐る人もいますから。私たちが伝えたいのは、 H-Dの修理技術だけではありません。プロとしてH-Dの「BAR&SHIELD」を背負った以上、H-Dのプロフェッショナルであることを誇りに思えるよう、できるだけ彼らの生の声を聞くようにしています。若くても経験が浅くても、必ず何か良いものを持っています。自分が心を開かなければ、相手は心を開いてくれない。インストラクターは、テクニックだけでなく、人に、仕事に、“愛情”が必要な仕事かもしれません。これからの若いインストラクターにとても期待しています。

ーライフセーバーとしての活動も精力的です。その目指すところを教えてください。

内藤●フィールドは違え、どちらも「お客様の命を預かっている」ことに変わりはないんですね。メカニックにはファーストエイドスキルを、ライフセーバーにはライディングスキルをトレーニングしています。2輪、4輪を問わず、メカニックにファーストエイドは必須です。また、ライフセーバーの多くが、スポーツを真面目にやって来た人間で、これまでの人生でバイクに触れたことすらない人たちばかりです。彼らがバイクに乗れば水陸両方で力が発揮でき、救助のレスポンスと機動性は計り知れません。現在、H.O.G.が携わるツーリングには、ファーストエイドスキルを持ったメカニックが同行し、HDJの試乗会イベントではライフセーバーが救護にあたっています。

ーこれからの内藤さんは、どんなことを目指しているのでしょうか?

内藤●基本理念は「1.SAFETY」、「2. ENTERTAINMENT」、「3. AVDENTURE」。「モーターサイクルの可能性=どういう形で社会に貢献できるか?」というのがテーマです。H-D FLTRをベースにレスキューバイクを作りました。ファーストレスポンダー(第一救助車両)として近々、アメリカで発表するつもりです。地球環境のために内燃機はまだまだ進化の余地があると思います。CO2の排出を低減するバイオ燃料や、エンジンの熱を電気に変える半導体などをH-Dでテストしてみたいと思っています。完成したら大陸横断などにチャレンジしたいものですね。また、H-Dが100年以上も愛され続けている謎を、まじめに人間生理学的に解明してみたいと思っています。「H-Dはなぜ人々を熱狂させるのか?」、「H-Dの後ろに乗った人がウトウト寝てしまうのはなぜか?」。Vツインエンジンが生み出すH-D独特の“鼓動感”と呼ばれる振動やサウンドが、人間の心拍と同調する一定の周波数を持っていることが分かりました。手術室にクラシック音楽が流れているように、吉本興行では「笑うこと」が健康や長寿に関わっていることを解明しようとしているようです。私は同じようにH-Dが、どのように人間の心理や体に影響を及ぼすのかを人間生理学的に解明したいと思います。

H.O.G.の活動にアクティブに参加している人たちを拝見すると、本当に活き活きとH-Dをエンジョイされている。父は60歳で亡くなりましたが、H-Dに乗っていればもっと長生きできたかもしれない。H-Dに乗り続けることが、ストレス発散や適度な緊張感をもたらし、健康や美容に少なからず影響しているはずです。現在、一緒に研究してくれるお医者様を探しています。ご一報ください。これが、内燃機を貫いているH-Dへの恩返しでしょうか。最終的には、オートバイによって非行や引きこもりを更生・社会復帰させるフリースクールを作りたいと思っています。部屋の中でゲームやパソコンでバーチャルな世界に浸っている。携帯で結ばれている友情。いつの間にか日本はおかしなことになってしまっています。オートバイで自然を相手に走る。メカニズムを知る。壊れても転んでも自己責任! これほど痛快な教材はありません。今こそ「ティーンエイジャーにオートバイ」という時代ですよ! “MOTORCYCLE RISK MANAGEMENT”というスローガンで「オートバイの楽しさとリスクを伝える」ことが私の使命です。

プロフィール
内藤 学
43歳。4輪&2輪メカニックとして、海外で修業を積み、帰国後HDJに入社、メカニックのトレーニングプログラム開発などに従事。また、ライダーのためのファーストエイド(応急手当)の普及活動を行う。現在、HDJテクニカルアドバイザーとしてイベントなどで活動中。

Interviewer Column

全国のイベント会場を転々とする内藤さんは本当にお忙しい人で、インタビューはイベント会場でステージの合間を縫って行うことになった。朝から会場に入り待ち構えていたが、ステージは数分間隔で次々に続き、お話を聞けるチャンスはなかなかなかった。ステージの横で待っているボクに対し、内藤さんは腰を傷めボロボロの状態だというのに、申し訳なさそうな顔で謝ってくれた。昼食の僅かな休憩時間にも関わらずインタビューをさせていただくことになったが、印象に残ったのが内藤さんのお母さんの話だ。海外で働くことを夢見ていた18~19歳の頃、内藤さんが自宅でオートバイをイジっていたら、インド人に「自分もホンダやヤマハが好きだ」と話しかけられ、最後には1000円で宗教の冊子を買ってくれと言われた。内藤さんはそのことをお母さんに「へんな外国人が来て、オートバイが好きだって言ってたら、結局は本を1000円で買えって言うんだ」と吐き捨てると、普段はまったく怒らない朗らかなお母さんが「あんたは外国で働きたいって言ってるけど、あんただって日本から一歩出たらへんな外国人なんだよ。その本、買って来なよ!」って猛烈に叱られたのだという。内藤さんはお母さんに手渡された1000円を握りしめ、そのインド人を追いかけて冊子を買った。なんというグローバルな目線を持ったお母様なのだろう。ボクにも3歳の息子がいる。そういう視野を持って、子供を育てていきたいと思った。(青木タカオ)

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