VIRGIN HARLEY |  西本 圭介(ベーシスト)インタビュー

西本 圭介(ベーシスト)

  • 掲載日/ 2006年05月19日【インタビュー】

ハーレーインタビューの画像

カッコつけて音楽を続けるのは
僕のスタイルではありませんから

今回ご紹介するのは広島県広島市のプロベーシスト 西本 圭介さんだ。海外ミュージシャンのツアーへの同行、オリジナルブランドの音楽機材の製作「名古屋コミュニケーションアート専門学校」の教育ディレクターを勤めるなど、その活躍の場は広い。詳しくは書ききれないけれど、西本さんがセッションしたことのあるミュージシャンの中には私がアルバムを持っている有名なミュージシャンがゴロゴロと…。音楽の世界では高名な西本さんとは同じスポーツスター乗りというつながりで偶然出会った。気取った雰囲気がなく、自然なスタイルでハーレーを楽しむ西本さんを見て、まさかこれほどスゴイ方だとは思わなかった。西本さんとハーレーとの馴れ初めだけでなく、せっかくの機会なので普段我々が垣間見ることのないプロミュージシャンの世界についても語っていただいた。ぜひお楽しみください。

Interview

ロックミュージシャンは派手でワガママで…
実際に会うとみんな誠実な人たちでした

ー西本さんはバイクとベース、どちらと先に出会ったのでしょうか。

西本●バイクの免許を取ったのは22歳のときで遅咲きです。音楽に目覚めた方が早く、中学生の頃に洋楽のハードロックに夢中になったのがきっかけで、高校に入ってベースをはじめました。

ーギター、ドラムなどの楽器もある中で、なぜベースを選ばれたのでしょうか。

西本●近所にやたらとギターがうまい人がいて「ああ、この人には敵わないな」と思ったんですよ(笑)。当時、周りにはギターをやっている人はたくさんいて「ベースをやった方がいろんなバンドから誘いがかかるかな」というのもありました。けれど、はじめてみると、ベースはなかなか奥が深い楽器で。ベースの弾き方次第で楽曲のコード感やグルーブ感、雰囲気を変えることができるんです。ギターほど目立つ楽器ではありませんが、音楽の「軸」を作り出す楽器なんですよ。

ーベースをはじめて、プロを意識したのはいつ頃からでしょうか。

西本●10代の頃は、ただ夢中になってベースを弾き、音楽を楽しんでいただけでした。まさか自分がプロになるなんて、想像したこともありませんでしたね。プロを目指そうと決めたのは、大学を中退し、サラリーマンをしていた22歳のときでした。

ー西本さんを音楽の道に向かわせたきっかけとは。

西本●当時、弟が大阪の音楽専門学校に通っていて、大阪での話を聞くうちに自分も「広島を出て、自分の力を試してみたい」思うようになりました。「本当に自分がプロになれるのか…」という不安はありましたが、仕事を辞め、生まれて初めて広島を出て、音楽漬けの生活を始めました。

ー「プロとしてやっていけるかも」と思い始めたのはいつ頃でしょうか。

西本●大阪で1年間みっちりとベースを学び、アメリカに留学したときですね。23歳のときに「ロックベーシストとしてプロを目指すならロックの本場『LA』を肌で感じたい」そう思って、LAにある「MI」という音楽学校に留学しました。そこは3ヶ月ごとに厳しい試験があるところで、試験をパスしないと学校には残れない非常に厳しい環境でした。本場のプロミュージシャンから基本を叩き込まれ、鍛えられたことは大きな自信になっています。メディアを通してしか見たことがなかったプロから直接指導を受け、話すことできたのは大いに刺激になりました。

「MI」に留学するまでは「ロックミュージシャンは派手で、ワガママで…」そんなイメージで見ていました(笑)。けれど、実際に会うプロの方は基礎的な技術をしっかり持ち、誠実な人ばかり。僕からすると雲の上のような人でも、質問すれば丁寧に答えてくれました。アメリカのミュージシャンは「後進を育てる」という感覚を持っていましたね。ファッションとして音楽をやっているのではなく、純粋に音楽が好きでプロになる人が多いからなのか「こうやって音楽文化が育まれているんだな」とアメリカのロックカルチャーを肌で感じることができました。LAでの1年間のおかげで僕も真剣にプロを目指そうと思えたのでしょうね。

ーちなみに、アメリカ留学中にハーレーとの出会いがあったのでしょうか。

西本●LAに住んでいたときに街でハーレーを見かけた記憶はほとんどないんですよ。ハーレーに限らず、街中でバイクを見かけることも少なかった気がします。アメリカでは二十歳そこそこの若者がハーレーに乗るなんてまずあり得ませんし、周りのミュージシャン仲間にもハーレー乗りはいませんでしたね。留学前は250ccのバイクに乗っていて「いつかはハーレー」という思いはあったのですが、アメリカでバイクを見かけなかったせいか、ハーレーのことはすっかり忘れベースに夢中になっていました。留学を終え、大阪に戻ってからですね、バイク熱が再燃したのは。

知らない曲でもうまく弾きこなす
そんな実践的なことを学べた大阪時代

ー留学後は、また大阪に戻られたのですか。プロを目指すのなら東京に行くのが普通なのでは?

西本●メジャーを目指すのなら東京に行くべきなのでしょう。当時の大阪は音楽ビジネスが盛んな場所ではなかったですしね。でも、アメリカに留学中に、LA、シアトル、ニューヨーク…など地域ごとにカラーの違うミュージシャンが育っているのを目にし「日本人である自分はどんなロックをやるべきなのか。アメリカの物真似ではダメだ」と感じる機会があって。日本に戻ったら「物真似ではない、他にない個性のある街で音楽を続けたい」と思ったんですよ。そんな街は…と考えてみたら大阪でした。大阪はブルースの雰囲気が漂う、人間臭い街で、個性豊かなトコロですからね。

ー「音楽ビジネスが盛んではなかった」街でどうやってプロとして生計を立てたのでしょう。

西本●僕が大阪に戻ったときは「関西空港」が開港して間もない頃で、大阪を訪れる外国人がたくさんいた時期でした。そんな外国人向けのロックやブルースを生演奏するBarが大阪にはたくさんあり、そこで演奏をする仕事をしていました。この仕事はアメリカ留学よりも学ぶことが多い、面白い仕事でしたよ。ブルースやジャズなどロックとは曲調の違う音楽を演奏したり、お客さんと英語で会話をして盛り上げたり…アメリカでは基本的なことを学びましたが、大阪では実践的なことを多く学べましたね。お客さんから知らない曲をリクエストされても「できません」とは言えず、やるしかありません(笑)。急に、お店に来ていたプロのミュージシャンが飛び入り参加してくることもあり、そんなときは1,2分打ち合わせだけで、他の楽器に合わせてベースを演奏したこともありましたよ。そんな環境に身を置いていると、ミュージシャンの知り合いも増え、後につながる出会いもたくさんありましたね。当時、一緒に頑張っていたミュージシャン仲間には今も第一線で活躍している人もいます。ホント…懐かしい時代です。

ーバイクに夢中になったのも、その大阪時代なんですよね。

西本●仕事が終わるのはいつも終電後でしたから、バイクは欠かせない乗り物だったんです。ヤマハの「Virago」に乗り、毎日ベースをかついで仕事場まで走り回っていました。あれこれと自分でカスタムもしましたよ。仕事は夜からなので日中はいくらでも時間がありましたからね。でも貧乏ミュージシャンですからお金はありません(笑)。家のベランダで缶スプレー塗装をしたり、サンダーでフェンダーをカットしたり…お金はありませんでしたが、自分でカスタムをする楽しさを知ったのは大阪ですね。

ーハーレーが欲しいと思い始めたのもその頃ですか。

西本●そうです。でも、当時はハーレーを買う余裕はありませんでした。「職業:ミュージシャン」だとローンも組めません。どれだけがんばっても、新しいバイクすら買えない…「ミュージシャンは社会的に認められていないんだなぁ」としみじみと実感しましたよ。ちょうどそんな時期に、ベースの講師をしていた学校から「福岡に新しく学校を創るから、立ち上げスタッフをやらないか」という話をいただいて。「安定した収入をもらい、気候のいい福岡でハーレーに乗る…いい話だな」とスタッフになることを決めました。

ー福岡での生活はいかがでしたか?

西本●福岡に移って3,4年は学校運営に追われっ放しで。でも、定職についたので結婚ができ、念願だったハーレーを買うことができました。「スポーツスター→ヘリテイジ」と乗り換え、存分にカスタムして毎日ハーレーで通勤していましたね。雨の日も雪の日も、365日ハーレーに乗る生活です。しかも、仕事は好きな音楽に関わること。学校でベースを教えたり、たまには息抜きでBarで演奏したり、と余裕を持って音楽もハーレーも楽しめる生活を手に入れました。けれど、そんな生活も、次第に息がつまるようになってきたんです。

ーなぜなのでしょうか。

西本●好きな音楽を仕事にして、好きなハーレーも手に入れ、結婚もしました。でも、22歳で広島を出たときに考えていた「自分はどこまでできるのかを試したい」その想いをいつの間にか忘れて、ぬるま湯に浸かっていたんですね。かなり悩みましたが「一度人生をリセットして、ゼロから音楽と向き合ってみよう」とハーレーも売り、家族を連れて自分のルーツである広島に戻ることにしました。それが2002年のことです。

ー広島に帰ってからのことは考えていたのでしょうか。

西本●先のことは何も考えず広島に戻ったのですが、なぜか運が巡りはじめました。まず、もともと勤めていた学校から「名古屋にも学校を創るのだけれど、スタジオ作りや機材選びができる人材がいない。広島に住んだままで構わないから手伝って欲しい」と声をかけていただいて。「他の音楽活動と並行してやってくれてもいいから」という「ホントに?」といういい話をいただいたんですよ。それで学校の運営に関わっていると、僕が参加している「Kelly Simonz’s Blind Faith」というバンドに「ディープ・パープルのメンバーと一緒にヨーロッパをツアーしないか?」という話までやって来ました。それが生まれてはじめての海外ツアーです。前々から「自分は海外でやっていけるのか?」という不安がありましたが、そのツアーのおかげで「やれる!」という自信を持てましたね。「音楽性がみとめられて海外ツアーに呼ばれた」…ゼロからスタートしはじめた僕にとっては、大きな一歩でした。

ーベーシストとして国内外から声がかかり、専門学校でこれからのミュージシャンの育成に関わり…恵まれた環境ですね。次はバンドで国内メジャーデビューでしょうか。

西本●今の環境がベストなので東京に出てメジャーになりたいとは思いません。メジャーデビューをして人気者になるのもミュージシャンのゴールなのは間違いありませんが、僕には今の生活が理想です。僕を認めて声をかけてくれるミュージシャンがいて、学校ではこれからの若い子を教えることができる。しかも、一番僕が大好きな広島でプライベートの時間も過ごせるし、広島お好み焼きも食べられるし(笑)。海外に出て活動するなら、東京も広島も関係ありません。どちらも同じ「Japan」ですからね(笑)。

ー西本さんにはミュージシャンっぽい気取ったところがありませんね。

西本●僕は普通でいたいんです。好きな街に住み、近所を普通に歩きたい。ファンの子とも普通に会話したい。結婚していることも子供がいることも隠したくない。ミュージシャンにとってタブーなことをだらけですね(笑)。カッコつけて音楽を続けるのは僕のスタイルではありませんから。

ー広島に戻ってから、またスポーツスターを手に入れて、ハーレーライフも満喫しているようですね。

西本●広島に戻ってきているときは「家族と過ごす」か「ハーレーと過ごす」かの毎日です。広島を離れているときも「次はどんなカスタムをしようか」とあれこれ想像してしまいます。僕の生活に、もしハーレーがなかったら…音楽を続けていて息が詰まってしまうかもしれませんね。音楽もハーレーも、どちらも僕には欠かせない大事なモノなんです。

プロフィール
西本 圭介
36歳。98年式XL883所有。ハイテクベーシストとして国内外にその名を知られ、海外ツアーやレコーディングに精力的な毎日を送る。後進育成のため、専門学校の音楽部門の責任者を務めるなど、その活躍の場は広い。西本 圭介さんのウェブサイトはこちら。

Interviewer Column

はじめて西本さんのことを知ったのは、2年ほど前のこと。自分でスポーツスターの「ハンドシフト・フットクラッチ」のカスタムをしている人がいると誰かから教えてもらい、西本さんのサイトを覗いてみたのがきっかけだった。「ハーレーのクラッチを握りすぎると、ベースを弾くときに左手の感覚が鈍るんですよ」とミュージシャンの仕事のためにスポーツスターのカスタムをしたという。普通は自分でそこまでしないだろう、と驚いたのが懐かしい…。その後も西本さんとは一緒にキャンプをしたり、スポーツスターミーティングで再会したりと「ハーレー乗りの友人」としてお付き合いをさせていただいている。本当に自然体で、気取ることなく話をしてくれるので、ミュージシャンということを忘れてしまいそうになる。「第一線で活躍し続けているミュージシャンはみんな常識を持った大人ですよ」西本さんにそう言われ、「ミュージシャン」という職業のことを間違ったイメージで見ていたのを反省した私だった…(ターミー)。

ピックアップ情報