VIRGIN HARLEY |  小川 泰良(JAPAN DRAG CUSTOM CYCLES)インタビュー

小川 泰良(JAPAN DRAG CUSTOM CYCLES)

  • 掲載日/ 2006年02月23日【インタビュー】

ハーレーインタビューの画像

人生折返を越えた第一世代のショップ
「欲」じゃなく、業界の将来を考えています

今回、ご紹介するのは埼玉県川越市の「JAPAN DRAG CUSTOM CYCLES」代表 小川泰良さんだ。小川さんは1981年からハーレーのカスタムに携わり、25年もの間ハーレー業界を見つめ続けてきた。この25年の間にカスタムの世界は大きく変化してきたという『カスタム=不良』というレッテルを貼られていた時代から一般の人が当たり前にカスタムを楽しめる時代まで、そこには各ショップの並々ならぬ苦労があったという。小川さんにこの25年のカスタム史を語っていただき、私たちが当たり前に楽しんでいる「カスタム」というものを振り返ってみたいと思う。

Interview

1979年式ローライダー…
ホントひどいバイクでしたよ(笑)

ー小川さんは16歳からバイクに乗り始めたとお聞きしましたが、その当時は「3ナイ運動」などが厳しかった時期だったのでは?

小川●僕が免許を取った翌年から、大型二輪免許は飛び込み試験でしか取れなくって「バイク=不良」みたいなイメージで見られていた時期でした。僕らより上の世代の方がバイクに乗っていろんな事件を起こしてくれたので、僕らの世代は「バイクの暗黒時代」をくぐり抜けてきたんですよ。

ーそんな時期でも高校の頃から自分のバイクをイジって遊んでいたんですよね。

小川●学生でお金がなかったから、アイディアでいろいろしましたね。先輩や仲間から安くバイクを譲ってもらい、カッコよくするために缶スプレーで塗装したり、アルミ板をハサミで切って外装を造り変えたり、イジる楽しみを覚えたのは高校の頃でしたね。でも当時はハンドルを変えてもダメ、ウィンカーを変えてもダメ、何もかもダメでした。KAWASAKIが900ccのバイクを造ったのに、警察からクレームがついて自主規制で750ccに排気量を落として販売する、そんな時代だったなんて今の若い人は想像できないでしょう?

ー今からは考えられないくらいバイクのイメージが悪かったんですね。

小川●「改造したオートバイに乗る=暴走族」と見られていましたから。カスタムバイクは「見ちゃだめ」、「買っちゃだめ」、「乗っちゃだめ」と。そんな時代でしたが、僕はどうしても車に興味が持てなくて、子供の頃からずっとバイクに憧れていました。少ないお小遣いでバイク雑誌を買って、ボロボロになるまで読み込んでいました。バイクが自分の人生を変えてくれる、自分の夢を広げてくれる、小さい頃からそんなふうに思っていたので、時代を気にせずバイクを楽しめたのかもしれません。

ー子供の頃からバイクを仕事にしようと決めていた、ということでしょうか。

小川●「仕事に」とまでは考えていなくて、高校を出て一度は普通の会社に就職はしました。でも「一生に一度くらいバイクの世界にどっぷり浸かってみたい」と思いはじめて、中古バイク販売店に住み込みで働きはじめたんです。

ー最初のハーレーを手に入れたのはその頃だったとか。

小川●そう、知り合いの業者が中古の79年式ローライダーを持っていて、それを引っ張ってきました。でも、当時の僕が現金で買えるわけもなく、親父の名義で勝手にローンを組んで買いました(笑)。当時は家賃12,000円のアパートに住んでいたのに、です。銭湯に行く回数を減らして、インスタントラーメンのスープにご飯を混ぜてお腹を満たして…そんなひどい生活を送りながらローンを返していましたね。

ー初めてのハーレー、いかがでしたか。

小川●ホントひどいバイクでした(笑)。その当時ハーレーに乗っていた人ならみんな知っていると思いますが、1979年式のローライダーはホントひどかった…。ローライダーは77年に1200ccで発表されたモデルだったのに、他のメーカーから1300ccのバイクが発表されたものだから無理に排気量を1340ccにあげてしまったんです。しかも当時、ハーレーはコストダウンを徹底していた時期で、軽量化という名目で部品が薄くなり「耐久性に難あり」でした。ホント、嫌になるくらいトラブルに遭いましたね。

ーでもハーレーを降りようとは思わなかった。

小川●エンジンは最高でしたから。他のバイクとはまったく違うあの感覚。アレにやられてしまって、他のバイクではダメな体になってしまっていて。仕方がないから、ダメな部品はとことん修理して、国産車のパーツを流用して少しずつ乗れるバイクに仕上げていきましたよ。買った当初はハーレーの修理の情報も知識もなかったので、間違ったこともいっぱいやってしまったけどね。4輪用キャブレターの取り付けたときはセッティングに苦労しました。山道に入るとセッティングが必ずおかしくなるから、いつもポケットにたくさんジェットを詰め込んでね。調子がわるくなったら停まってキャブレターを調整…そんな時期もありましたよ。当時まだ薄かった『CCI』のカタログやアメリカの『ジャマーズハンドブック』、『イージーライダースマガジン』を古本で手に入れて「ああでもない、こうでもない」と頭を捻って勉強していました。

ー上野で「JAPAN DRAG SERVICE」を始めたのはご自分が苦労されたからでしょうか。

小川●その当時、ハーレーのパーツは本当に高かったんです。それでもすぐにパーツが手に入るのならマシな話で、修理に必要なパーツを何ヶ月も待つことなんて当たり前でした。なかなかパーツが手に入らないものだから、壊れた部品を溶接して組み込んでしまう、そんな間違った修理をしている同年代の若いハーレー乗りがたくさんいました。「みんな困っているんだな」そう思い、仲間と一緒に立ち上げたのが最初の「JAPAN DRAG SERVICE」です。最初はパーツの販売がメインでしたけれど、修理の依頼も次第に増えてきました。

ー今からじゃ考えられないトラブルが多かったようですね。

小川●当時の若いハーレー乗りはプライドが高い人が多くてね。「俺は自分でやれるんだよ」と無茶な修理をやってしまい、トラブルがひどくなって車両を持ち込む、そんな人は多かったですよ。「何でココがこんな風になっちゃってるの?」素人修理のハーレーを数え切れないほど直しました。たぶんですが、当時にお店をやっていたショップはみんなそんな経験をしていたと思いますよ。

自分が生涯をかけられる仕事…
やはり自分はカスタム屋かな、と

ー小川さんはその後、ハーレー業界から一度身を引かれたんですよね。なぜでしょうか。

小川●「バイク屋をやっていると、バイク乗りとは友達になれないのかも」そんなことを考えて嫌になっちゃったんですよ。お客さんと仲良くなりすぎると「友達なのにこんなにお金とるのかよ」とか「これくらいタダでやってくれよ」っていう人も出てきて。「やっぱりお客さんとは一線引かないといけないのか」と思いはじめたんです。それで別の仕事をしながら気心の知れた仲間のハーレーしか触らない、今でいうガレージビルダーみたいなことを始めることにしたんです。

ーハーレー業界の次はどんなお仕事を?

小川●舞台美術の仕事です。ミュージシャンのツアーに同行してセットを組む、全国を転々とする仕事でした。何ヶ月かツアーに出て、戻ってくると1ヶ月は何の仕事もいれずローライダーで日本中旅をする。3年くらいはそんな自由きままな暮らしをしていました。まとまった休みが取れる仕事だったので、日本中あちこちを走り回りましたね。

ーその後、またハーレー業界に戻ってきたわけですが、なぜ一度身を引いた世界に?

小川●舞台美術の仕事を続け、最後はTV局専属になって音楽番組などのセット作りをしていました。30代を目前にして「俺の人生このままでいいのか?」と悩んでしまってね。舞台美術の仕事を極めて舞台監督になっている自分より、バイクを触っている自分の将来の方が自分らしいのかな、そう思いはじめ、1987年に仲間と一緒にハーレーショップを立ち上げました。

ー1987年というと、まだ今ほど自由にカスタムできなかった頃ですよね。まだまだ仕事はしづらかったのでは?

小川●カスタムショップなんてカッコいい言葉はまだなくて、ただの「改造屋」。陸運局とは改造の申請でよくやりあいました。どれだけカッコいいカスタムバイクを造っても、公認の車両じゃないと、もしものときにオーナーが苦労する。だからちゃんと陸運局で認めてもらえるよう、何度も陸運局に足を運びましたよ。でも、当時はハンドル一つ変えただけでも公認してもらうのは大変で、細かいところをネチネチとついてくる。「ハンドルの強度は?」と言われ書類を出すと「ハンドルの取り付け部分の強度は?」っていうふうにね。次々に陸運局が出してくる条件を全部クリアして、やっと公認車両になれる。

最初は「前例がない」と言われて突っぱねられた改造も、何度も何度も陸運局に足を運んで実績を積みノウハウを貯めると認められ、大手を振ってカスタムを手がけられるようになったんです。今は簡単にできてしまう構造変更も昔はホント大変だったんですよ。そうしているウチにお店も軌道に乗り始め「俺がいなくてももう大丈夫だな」と思うようになった頃、自分のお店をやろう、と決心したんです。

ー今の「JAPAN DRAG CUSTOMCYCLES」ですね。

小川●そう。前々から生まれ故郷の川越でのんびりとお店をやりたいな、と考えていました。都会でカスタムショップをやるのは環境がよくないですからね。

ーといいますと?

小川●都会だと家賃が高くて、思い通りの広さの工場を借りるのは無理ですよね。だからお店のスペースが限られて、バイクを預かれなくなってしまう。お店の前にお客さんのバイクを並べて、自転車や車に当てられたり、夜遅くに近所に気を遣いながら作業をしたりと神経も使わなくちゃいけない。「もうそんなことに気を遣うのは嫌だな、バイク屋をやるのにいい環境でお店をやりたいな」そう思って川越でお店をはじめました。今のお店、いいですよ。工場は広く、家賃もそんなに高くなく、無理してお客さんに営業をしなくてもいい。だから働く自分たちもお客さんも、のんびりといい雰囲気でお付き合いできます。

ー小川さんが理想とするお店がやっとできたと。

小川●そうですね。僕はもう40代半ばで、もう人生の折り返し地点は過ぎました。だから「もっとお店を大きくしたい、もっと儲けたい」という欲はもうないんです。あとは楽しみながら、信頼できるスタッフと好きなバイクを造ることができれば充分なんです。

ー25年前、「アレもコレもダメ」という時代から小川さんはカスタムシーンを見てきました。今はある程度はカスタムは世に認められていますが、この先のカスタムシーンについてはどうなっていくと思いますか。

小川●確かにカスタムはやりやすくなってきています。けれど、あくまで「規制の緩和」という形で縛りが緩くなっているだけで、規則は相変わらずあるんです。この先「環境問題」などでまた規制が厳しくなるかもしれません。危険なカスタム車両に乗って事故で亡くなる人がでてきたりすると、また規制がはじまるかもしれません。ここは自由の国アメリカじゃなく、縛りだらけの国の日本ですから、守るべきことは守って楽しまないと。バイクに厳しかった時代から、全国のバイクショップが努力を重ねて手に入れたのが、今の合法的にカスタムを楽しめる時代です。

やっと手に入れたその環境を、これからは業界全体で守っていかなければいけません。「若気の至りで突っ走り、チョッパー屋を始めました。法律スレスレのバイクを造っています」もうそういう時代ではありません。みんなでこの業界でしっかり食べていこう、その自覚を持たなきゃいけないですね。この世界を25年も見てきて、できることなら25年後もこの世界で楽しくバイクを触っていれたらいいな、そのためにこれからはこの業界に貢献したいな、そう思っています。

プロフィール
小川 泰良
47歳。1981年、東京上野で多くのカスタムショップの源流となっている「JAPAN DRAG SERVICE」を立ち上げる。一時期はハーレー業界から身を引いていた時期はあったものの、復帰し、埼玉県にて「JAPAN DRAG CUSTOMCYCLES」を経営。

Interviewer Column

ジャパンドラッグに初めて遊びに行ったのはもう1年以上も前のこと。東京の大田区ハーレー乗りがわざわざ川越のジャパンドラッグに愛車を修理に出す、そこまで信頼されているお店なんだな、一度遊びに行ってみよう、と。老舗のお店なのでやや緊張しながら遊びに行ったのが懐かしい。けれど、ジャパンドラッグはそんな入りづらいお店ではなく、わかりやすく言うと「関西風」のお店だった。小川さんとスタッフの掛け合い、お店の雰囲気など気取ったところのない、どちらかというとコミカルな雰囲気が漂っていた。店内には思わず唸ってしまうカスタムバイクもあり、痒いところに手が届くオリジナルパーツもあり、小川さんとスタッフの漫才のような掛け合いもあり、ジャパンドラッグはまるで遊園地のようなお店とでも言おうか。「ハーレー遊園地」この例えが一番しっくりくるお店だ。(ターミー)

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