VIRGIN HARLEY |  浅川 仁義(Zingy’s)インタビュー

浅川 仁義(Zingy’s)

  • 掲載日/ 2007年10月01日【インタビュー】

ハーレーインタビューの画像

趣味で集め始めたショベルのパーツ
まさか、それが仕事になるとは

以前は数えるほどしかなかったハーレーパーツの通販ショップ。しかし今は大量のショップが林立し、豊富な種類のパーツが出回っている。多くのショップが同じようなパーツを扱う中、個性的なアイテムをラインアップするショップがある。今回紹介する「ジンギーズ」だ。デッドストックの純正パーツ、デカールからヴィンテージタイヤ、オリジナルパーツまで。ここでしか見つからないアイテムが多い。これだけレアなアイテムを欠かすことなく、どこから見つけてくるのか、以前から不思議に思っていた。不思議に思っていたことはもう1つ。代表の浅川さんの経歴だ。30代前半まで役者として活躍し、TVドラマなどに出演していたという。ジンギーズというショップについてだけでなく、浅川さん個人についても聞きたいことが盛りだくさんのインタビューとなった。

Interview

役者で食えるのは一握り
そこに一生はかけられなかった

ー浅川さんは、もともと役者をやられていたとお聞きしましたが。

浅川●21歳で上京し、30過ぎまで役者をやっていました。ただ、役者と言ってもそれ1本で生活できていたわけじゃないですからね。

ー役者を目指すことになったきっかけは?

浅川●「どうしても役者をやりたい」という気持ちがあったわけじゃありません。上京するまで地元福岡で車のチューニングショップのメカニックをやっていました。当時人気だったTV番組の収録を見に行くぞ、と東京に出かけたのが上京するきっかけでしたね。普通は葉書で収録見学の応募するんでしょうけれど、当時の僕は「東京に行けば見れる」と思っていたんです(笑)。当然いきなり行っても収録を見られるわけはなく、新宿や原宿などをブラブラして帰ってきました。しかし戻ってはきたものの、東京に行ったことで何かに火がついたみたいで。数ヶ月後にはなぜか役者を目指して東京へ向かっていました。

ー最初は劇団に入って修行、でしょうか。

浅川●「TVや映画に出たい」という気持ちで上京したので、俳優養成所に入りました。その後ある女優さんの付き人をしていたのですが、たまたま地元の友人の親戚に元東映の映画プロデューサーがいましてね。その人に現役のプロデューサーを紹介してもらい、いろんな人を紹介してもらったんですよ。そのプロデューサーも僕を面白がってくれたのか、撮影所で誰かを見かけたら「あの人に挨拶してこい」と。僕はその人が誰だかわからずにいきなり挨拶に行ったのですが、後から話を聞いてみたら後の東映の社長さんだったり、映画監督の深作欣二さんだったり。わけのわからない若造にいきなり挨拶されて、よくみんな笑顔で相手してくれたと思いますよ。

ーいきなり映画界の大物の人たちにお会いできて、後に何か役立ちましたか?

浅川●たぶん何の役にも立ってはいないでしょうねぇ(笑)。でも、若い頃にそんな人たちに会えただけで嬉しいですよね。アルバイトで食いつなぎながら、少しずつ役者の仕事をもらえるようになりました。

ー役者として食べていくのは、どのくらい難しいのでしょう。

浅川●食べていけるのはホンの一握りですよ。友人に「役者なんて目指しても、せいぜい“斬られ役”になるのがいいとこだぞ」と言われたことがありますが、斬られ役になるのがどれだけ大変か(笑)。「そんなヤツは5万といるよ」という言葉がありますよね。役者の世界はその言葉がピタリと当てはまるんです。役者になりたいと思っている人が5万人いて、その人数で競争です。その中で1度くらい役者の仕事をしたことがある人が5000人いて、500人くらいは名前を聞けば何となくわかる人たち。50人が役者だけでご飯を食べることができて、5人の人たちがスターと呼ばれる人たち。そんな厳しい世界なんですよ。たまにTVドラマの仕事をもらえても、若い頃はギャラなんてほとんどないんです。「プロフィールにこのドラマに出たと書ける」と、それだけで若い役者は集まりますからね。

ーどんな仕事をやっていたのでしょう?

浅川●TVの刑事ドラマ、Vシネマのヤクザ映画などに出ていました。僕が役者を目指し始めた頃は日本の映画は元気がなくなってきた頃で、代わりにレンタルビデオ用の映画、Vシネマが盛り上がりはじめていました。ヤクザ映画などが主流だったんですが、20代だった僕はチンピラヤクザ役なんかで使いやすかったみたいですね。そうやって少しずつ仕事が増えてきて、役者を辞める頃にはちゃんとした役の仕事もさせてもらえるところまではいきました。

ー役者を辞めようと思ったのはなぜですか。

浅川●30代に入り、役者として求められるレベルが上がってきたことがきっかけかな。役者同士で飲みに行くと、劇団出身の役者はシェークスピアみたいな演劇の話を熱く語っている。そういう演劇の基礎みたいなモノを僕は経験していなかったので…。ハーレーのパーツをミーティングで販売するなど、フリーマーケット感覚でやっていた時期でしたから、一度福岡に戻りハーレー1本で食べて行こうと考えはじめたたんですよ。

最初は趣味で集め始めただけ
それがレアアイテムになるなんてね

ーハーレーには役者時代から乗っていたんですか?

浅川●アパート住まいなのにローンを組んで、81年式のスーパーグライドを手に入れました。当時は六本木でアルバイトをしていたんですが、近くに有名なハンバーガー屋があって週末になるとハーレーが何台も集まってきているのをよく見ていたんです。スタイルもサウンドも、乗っている姿もカッコよくてね。小さい頃に憧れたハーレーに僕も乗りたいな、と。さすがに新車を買う余裕はなかったので、個人売買でスーパーグライドを見つけたんですよ。当時のショベルは今ほど高くなかったですからね。

ーいきなりショベルですか(笑)。

浅川●そのショベルはセルがついていなかったので、始動はキックオンリー。あれだけの排気量のバイクでしょう? 前のオーナーのところに取りに行ったときは朝から何時間もキックの練習に付き合ってもらいました。何とかキックでかけられるようになって帰るときも、エンジンを停めたら二度とエンジンをかける自信がなくてね。お腹が減っているのにどこにも立ち寄れず、まっすぐアパートまで帰りましたよ。

ーアパートの前にショベルを停めておいたんですか。

浅川●駐輪場に停めていましたよ。今みたいにハーレーの盗難はなかったですから。自転車が並ぶ中に1台だけハーレー(笑)。そんなところに停めていましたけれど、初めて手に入れたハーレーは本当に大切にしました。アルバイトから深夜に帰ってくると、街灯の下で朝まであちこち磨いてピカピカにしたこともありました。

ー整備はご自分で?

浅川●最初は撮影所の近くにあった「HotDock」さんに出入りしていましたが、だんだん「HotDock」さんも忙しくなってきて。他の車両で忙しいときは、やり方を聞いて自分で整備するようになりましたね。上京するまでは車のメカニックでしたから、OHVでポイント点火のハーレーのエンジンも触れないこともなかったんです。慣れてきたら何でも自分でやるようになり、アメリカに行って買ってきたスーパーチャージャーなんかも、いつもの街灯の下で自分で取り付けていました。ガレージがなかったので作業はいつもアパートの前、今で言うバックヤードビルダー以下ですよね(笑)。

ーアメリカにはよく行っていたのでしょうか。

浅川● 役者をやっていたので「いつかはハリウッド」みたいな妄想はしていたんです。それで勉強のためアメリカに行くようになったのですが、なぜか回るのはハーレーショップばかり。観光地の写真よりハーレーの写真ばかり撮っていました。初めてアメリカに行って驚いたのは、街でハーレーをほとんど見かけないこと。たまに見かけてもノーマルのツアラーばかりで、フルカスタムのハーレーなんてほとんど見かけませんでしたね。「雑誌で見たアメリカと何か違うぞ」と思いましたよ(笑)。

ーデッドストックパーツを集め始めたのはその頃から?

浅川●最初は好きで集め始めただけだったんです。小さい頃、「西部警察」で館ひろしさんがハーレーに乗っていたのを見た記憶があって。そのハーレーのタンクには“AMF”のロゴがついていました。それなのに僕のスーパーグライドにも当時のハーレーにも“AMF”のロゴがない。「なぜ?」と思って調べてみると、AMFはハーレーの経営危機のときに資本参加した会社で、AMF時代(1969年~81年)のハーレーにしか“AMF”のロゴは入っていなかったんですね。それをきっかけに、アメリカに渡ったときにAMF時代のパーツを集め始めたら、タダみたいな値段で売られているんです。当時のアメリカ人には「効率化が図られたAMF時代が、ハーレーをダメにした」という感覚があったみたいで。AMFロゴが入ったパーツを向こうのスワップミートで買おうとしたら「何でこんなモノが欲しいんだ? 勝手に持っていけ」と言われたことがありました。僕はAMFに特別偏見もなかったので、AMF時代のパーツだろうと喜んで集めていました。

ーショベル自体の価値が今ほど高くなかったのも、パーツを手に入れやすかった理由でしょうね。

浅川●まだ生産終了から10年くらいしか経っていませんでしたからね。パンヘッドやナックルヘッドは当時からヴィンテージとして認知されていましたが、スワップミートではショベルヘッドは車両もパーツも安く売られていました。アメリカにはAMCAというヴィンテージモーターサイクルの協会があるのですが、AMCAの規定では「生産から、25年以上たったモーターサイクルをヴィンテージと認める」とされています。それはあくまでAMCAの規定ですが、一般の人も同じように見ていたんでしょう。当時のショベルはただの“中古のハーレー”でした。

ーパーツはスワップミートだけで集めたのでしょうか。

浅川●アメリカで老舗のハーレーディーラーに顔を出しては、欲しいモノを譲ってもらっていましたね。ディーラーは時代の流れで今は郊外の大型店舗に引越し、売れない不良在庫のパーツはとっくに処分され、今は貴重な純正パーツを持っているところは少なくなっています。僕がディーラーを回っていた頃はショベルのパーツを持っているところはたくさんありましたよ。ディーラー側も「売れない在庫をどうしよう?」と悩んでいたようで、古いパーツを引き取りたい、というと喜んで売ってくれました。

ーそれを日本に持って帰って販売した、と。

浅川●最初は誰も見向きもしてくれませんでした。僕も好きで集めていただけで、売れるとは思っていませんでしたね。役者時代にハーレーパーツ販売でお小遣いを稼ぐようになったのは、ミーティングでの中古パーツの販売とアメリカから仕入れたチョッパーパーツの販売です。デッドストックの純正パーツはコツコツと、自分のために集めていただけでした。

ー今はその時代のモノが人気なのが不思議です。

浅川●日本だけではなく、世界中でAMFロゴのパーツは人気になっているようです。2000年を過ぎた辺りからかな、10年ほどしかなかったAMF時代のパーツの引き合いが強くなったのは。最近はアメリカやヨーロッパから「浅川のところならあるかも」と目ぼしいパーツの問合わせがくるくらいになりました(笑)。時代の流れって面白いな、と思いますよ。

ー長くハーレーに乗っていると、この業界の中での流行の変遷もよく見えるでしょう。

浅川●旧いモデルの良さもわかるのですが、日本のカスタムショーなどで旧いモデルばかりが並ぶのを不思議に感じることも多いですね。「ショベルじゃなきゃ」、「リジッドフレームじゃなきゃ」アメリカのHotRodの世界なら旧いシャーシに最新のエンジンを積むような手法が当たり前になっています。ショップによってはそういう手法もアリでしょう。日本でもそんな新しいことにチャレンジしているショップも増えてきましたが、まだまだ旧車信仰がちょっと強いかな、と(笑)。

ー2007年5月に熊本で「F.T.W. 1st Show 」を主宰されましたが、ショーを開催するきっかけは現在のカスタムシーンに何か訴えたいことがあったからでしょうか?

浅川●そこまで大それたことは考えていないですよ(笑)。10年以上ご飯を食べさせてもらったハーレー業界を盛り上げる、地元九州を盛り上げる、そこからスタートしたカスタムショーです。九州にはショーに出展するようなショップは数えるほどしかありませんが、九州の外の日本中に名が轟いているショップにも出展してもらいました。クールブレーカーなど日本中のショップが集まる場所で賞を取るハーレーを、来場者の人や九州のショップにじっくり見てもらって刺激を受けてもらいたいな、と。あとは地元の勢いのあるショップの車両がメディアや全国の人の目に留まる機会を作りたかったんです。F.T.W.をきっかけに知名度が全国区になるショップが出てくれたら嬉しいですね。

ー出展車両はハーレーにこだわったわけでもなく、自由度は高かったようですね。

浅川●出展者の人にも気楽に楽しんでもらいたいので、特別な枠は設けていません。他のショーの真似をしても仕方がないですしね。クールブレーカーに出展するショップが「開催日までに間に合わさなければ」と気合を入れて車両を製作しているのを知っているので、ウチは気軽に楽しめるショーにしたい、と。持てる技術を振り絞って、悩み抜いて製作した車両を全国のショップが競い合う場はもちろん必要だと思います。それが業界のレベルアップに繋がりますから。でもF.T.W.はそうじゃなくていいでしょう。ショップの看板になる車両を展示しつつも、趣味で作った「こんなのもアリ?」という車両を展示してもいい。昔、アメリカのデイトナバイクウィークに行ったときにハンバーガーの形をしたハーレーを見たことがあるんですが、そんなバイクがあったっていい。ショーは非現実的な世界なんですから、面白いけれど公道で乗るのは恥ずかしい、そんなバイクも並んでいる気楽なショーになって欲しいな、と思いますね。

プロフィール
浅川 仁義
42歳。初めて買ったショベルとV-RODを所有する。福岡県朝倉市にて「ジンギーズ」を主宰。20代は役者を目指し、TVドラマなどに出演していた。趣味ではじめたハーレーパーツの収集を活かし、ミーティングなどでパーツ販売を行うようになり、ジンギーズへと至る。

Interviewer Column

初めて手に入れたショベルヘッドを大切にしつつも、最新のV-RODカスタムにも夢中になる浅川さん。「旧車と最新モデル?」と疑問に思ったが「僕は新しいモノ好きですから」と一言。自分の好奇心が向くものなら新しい旧いは浅川さんには関係ないことのようだった。自分がカッコいいと思うかどうか、その判断でハーレーを楽しんできたのだろう。誰もが見向きもしない頃からレアアイテムを収集しつづけ、今や本人でも「倉庫のどこに何があるのかわからないこともある」のだとか。ジンギーズの倉庫にはマニア垂涎のアイテムがゴロゴロと眠っている。アメリカで生まれたハーレーのレアアイテムが、福岡県ののどかな街に集中して眠っているとは…面白い話だ。(ターミー)

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