VIRGIN HARLEY | 濱田 康司(ハマーサイクル代表) インタビュー

濱田 康司(ハマーサイクル代表)

  • 掲載日/2009年03月27日【インタビュー】

ハーレーインタビューの画像

100年の歴史を持つハーレーだから
歴史にも目を向けて一層楽しんで欲しい

都心から小一時間ほどのところにあるハマーサイクルは、オールドモーターから最新ツインカムまで幅広く対応してくれるショップだ。エンジンのモデルとして新旧にかたよりがないのは、濱田氏がそのすべてをこなしてきたから。国内で10年、アメリカで6年の、計3店舗で経験を積んだ彼は、アメリカ仕込みの強面な風体とは裏腹に、手先の技術は繊細そのもの。また内燃機だけではなく、カスタムバイクも好評を呼んでいる。完成度の高い技術とセンス、10代の頃から荒波にもまれ続けてきた落ち着いた気だてがショップに人を集めている。事故をキッカケに決めた自分の将来と、アメリカでの修業時代に学んだ数々の経験が、今の濱田氏の基軸となっている。

Interview

21歳の時に決心した
「ハーレー屋」という職業と渡米

ーもともとハーレーには興味がなかったと聞きましたが。

濱田 ●そうですね。10代の頃に僕が知っていたハーレーというと、子供の頃に見たウルトラみたいなでっかいのです。今で言えばショベルのFLHなんですけど、興味はありませんでしたね。

ー興味を持たれたキッカケは何だったのでしょう。

濱田 ●兄貴がバイトしていた酒屋の先輩が、スポーツスターに乗っていたんです。その当時はスポーツスターに乗っている人は少なく、それまで僕は見たこともありませんでした。「こんなハーレーがあるんだ」って、すごく興味を持ちました。

ーそれでスポーツスターを購入したのですか。

濱田 ●しばらくしてからですね。初めてスポーツスターを見てから、都内にあるハーレーのディーラーに足を運びました。そうしたら、そこにFXRがあったんです。新車だから高くて買えないのはわかっていたんですが、ディーラーに行ったことで、いろんなラインナップがあることをいろいろと学べましたね。その後、埼玉にある国産バイクを主に取り扱う店にたまたま下取りか何かで入っていたFXRを中古で譲ってもらったんです。それが18歳の時です。

ーいつ頃からハーレー屋になろうと思い始めたのですか。

濱田 ●19歳の時に大きな事故をしたんです。それが転機ですかね。顔や腕などに、神経に達するほどの大きなキズを負いました。まだ小僧だったので、「これでは表の世界では生きていけない」と思ったんです(笑)。それから、いろいろな仕事をしてみて、いろいろなことを考えるようになりました。

ーその中のひとつに「ハーレー屋」という選択肢があったのですか。

濱田 ●いえ、そうではないんです。その頃2台目としてショベルを買ったんですけど、「自分でもっとハーレーいじりをできないといけない」と思うようになりました。その時代はハーレー屋さんが少なく、しかも値段が高かったので、とても修理に出せませんでした。まぁ、ショベルを選んだコト自体が間違いだったのかもしれないけど(笑)。少しずつ自分で触るようになって、それで「バイク屋に入って自分のバイクを触れるようになりたい」と思ったのがキッカケです。

ー勤めはじめた頃のことを教えてください。

濱田 ●20歳の時に世田谷のチョッパー屋に雇ってもらったんです。事故の外傷は次第に良くなって、普通の会社員として働くっていう選択肢もあったんですが、まもなくして「この仕事で食っていこう」って決めましたね。早くアメリカへ行って技術を学び、戻ってきて地元で店を出そうって考え始めました。

ーアメリカへ行く前に、古い内燃機に強いショップにも勤められたと聞きましたが。

濱田 ●そうですね、完全にスキルアップのためです。アメリカに行く前に、自分の手でパンヘッドを全部バラして組むっていう目標を設定していました。それで、「リトルウイング」というお店を選び、本腰を入れて勤めました。そこではガムシャラに働きましたね、お金なんてどうでもよくて、人の2倍は働いたんじゃないかな。大変だったけど、すごくいい経験を得ました。結局23歳の時から26歳まで、4年弱ぐらい在籍していました。

ーそのショップを辞めてから、すぐに渡米したんですか。

濱田 ●いえ、とりあえず向こうで必要になるだろうお金を作らないといけないので、約1年半、はつり・解体の仕事をしました。さらに2台あったハーレーのうち1台を売ってお金を作りました。そして27歳の時に、アメリカに行ったんです。

ーアメリカ生活を始められた場所はどこだったのですか。

濱田 ●場所はカリフォルニア州のサンディエゴです。もともと日本にいた時から、行く場所は決めていたんです。通うための語学学校と住むアパートは、インターネットで調べていましたから。

ーでは、最初は語学勉強から始められたわけですか。

濱田 ●そうですね。アメリカに行って、日本語で仕事しようとは思っていなかったのと、日本人と仕事しようとも思っていなかったので。もちろん日本にいたときからそれなりの準備はしていましたけど、やっぱり語学ができないと意味がない。渡米してから3ヶ月間、みっちり英語の勉強をしました。お坊さんではないですけど、かなりストイックな生活をしましたよ。日本人とは話さないし関わらない。アメリカに着くなり、いきなり同じアパートのブラジル人に「飯食いに行こう」って声かけたりして(笑)。インターナショナルアパートメントだったから、同じような奴らが結構いたんですよ。それは良かったですね。

ー勤めるバイク屋は決まっていたのですか。

濱田 ●まったく決まっていませんでした。自分の足でまわって自分の目で見て、それで「働きたい」と思ったショップに行きたかったんです。サンディエゴにあるバイク屋のほとんどに行ったんではないですかね。でも自分に合うバイク屋はありませんでした。サンディエゴという街自体はすごく気に入ったんですけど、やっぱり観光地なのかなって。「これはダメだな」と思って、それでロサンゼルスに移りました。

ーロスでの生活はどうだったんですか。

濱田 ●ロスに行ってからしばらくは知り合いの仕事を手伝っていたんですけど、その頃に一件いいショップを見つけました。ダウンタウンの南部に位置するサウスベイという地域にある、いわゆるリペアショップでした。古い内燃機の仕事やディーラーとしての顔も持つ、他のバイク屋でできないことを一手にやるショップでした。何度か出向いて「働かせてくれ」って言ったら、向こうはうーんって考えていたんだけど、「とりあえず明日来てみろ」って言われて。それで翌日赴いたら、「まず作業をやってみろ」って言ってきました。それでその日一日、一生懸命仕事をやりましたね。そして仕事が終わったら、向こうから「明日から来い」って言われたんです。すごく嬉しかったですね。

ーではアメリカ滞在中、ずっとその店で働いていたのですか。

濱田 ●そうですね、結局6年近くいました。27歳の時に渡米して、帰ってきたのが32歳の時かな。最初の3ヶ月と、ロスに移ってからの少しの期間を除けば、ずっとそのショップで働いていましたね。

ーでは、その店は本当に濱田さんに合っていたのですね。

濱田 ●そうですね。「本当に自分が働きたいショップで」という苦悩はすごくあったんですよ。サンディエゴの時もすごくいっぱい調べて、自分の足で探してまわったんですけどダメでしたからね。もともとアメリカのバイク屋で働くことに対して、「お金を稼ぐ」ことは俺の目的じゃありませんでした。純粋にスキルアップがしたかったんです。でも食っていかなきゃいけないという現実もあって、貯めたお金もドンドン減っていって…。そうした現実と向き合う苦悩はありましたけど、ロスで「働いてみたい」と思えるバイク屋に巡り合えたのはラッキーなことですね。

ーちなみに、アメリカ滞在中に走りに行かれたりしたのですか。

濱田 ●もちろん走りましたよ。最初は単身FXRでアメリカを横断して、フロリダのデイトナバイクウィークに行きました。その後、働いていたバイク屋のおっさんとスタージスにも行きましたね。帰国する直前には、日本から来た友人と2人でアメリカ本土を一周しました。その時は確か、40日間ぐらい走ったんじゃないですかね。

アメリカで学んだ大きな経験
錯誤する日米のハーレー観

ー日米のハーレー屋で修行した経験者に聞きたいのですか、やはりアメリカの感覚との違いは感じられましたか。

濱田 ●アメリカで得たものはいろいろですかね。もちろん、この職業でいう技術もあれば語学もありますけど、人生経験が大きかったです。自分がさまざまなことを学んだ5年間だったかな。

ー例えば、どんなことが挙げられますか。

濱田 ●死生観が変わったことが大きかったですね。日本にいた頃に仲間が事故で死んだこととかありましたけれど、アメリカにおける死生観ていうのは日本のそれとは全然違うものだと知らされました。僕が住んでいたところがメキシカンと黒人しかいない地域で、ルームメイトの黒人からいろいろと差別問題に関する話を聞きました。彼ら黒人はものすごく鬱積した問題を抱えながら生きているんですよ。でも同時に、昼間働いているのは白人の世界で、その両方の人種の考え方を聞いたりもしました。するとある日、そのルームメイトがいきなり撃たれて死んだんです。日本では普通に生活していれば、撃たれて死ぬなんて考えられないじゃないですか。さらにお店のお客さんにギャングがいて、「抗争で打たれた」って杖をついて現れ、仲間が死んだとか誰それを殺したという話も耳にしました。それから「生と死」というものを必要以上に意識するようになりましたね。あまりハーレーの話とは関係ないのですが、自分の中ではものすごく大きな経験になっています。

ーそれは大きな経験だと思います。向こうのハーレー乗りのことを教えてください。日本のハーレー乗りとの違いとか。

濱田 ●同じ部分と違う部分がありますね。アメリカでも9割の人たちは、日常の中にハーレーを取り入れているわけじゃなくて、週末に乗るんです。要は、日常から別世界に運んでくれる乗り物として楽しんでいるという感じですね。その点は日本もアメリカも一緒です。違う点としては、アメリカ人はハーレーに対して愛国心を前面に打ち出しているというところですね。それも自然な感じで見せています。日本人が考えている愛国心は、どうも違う方向に持っていってしまう人が多いし、言葉自体が勘違いされているように思えます。それとは違い、彼らは本当にナチュラルに「自分はこの国を愛していて、その国が生んだこのバイクを愛しています」っていう風なんですよ。あれはクリスチャンだからですかね(笑)。後はだいたい一緒ですね、ウィークエンダー(週末族)っていわれているハーレー乗りがほとんどで、普段は着ていないチャップスとかを引っ張り出して、「イェーイ」って言いながら楽しそうに走っている、実に微笑ましいスタイルですね。

ーでは逆に、ハードなアメリカのハーレー乗りはどうですか。

濱田 ●ハードコアな人というのは、昔は日本とアメリカで差があったと思いますけれど、今は感覚的にとても近づいていると思います。ハーレーをコアに乗っていたり、ハーレーを大事にしている人の感覚というのは近いですね。強いて言うなら、アメリカでは若い人がハーレーには乗りませんね。日本では若者も乗っていますが、ハーレーに長年乗っている人や携わっているアメリカ人たちは、若いハーレー乗りが少ないことを憂いているというか、心配していますね。

ーそれはなぜなのでしょう。

濱田 ●魅力がないみたいです。若い人たちが言うには、「価格が高い、そして遅い」。僕が「日本では若者が乗っているよ」って言うと、ビックリされますよ。ただその問題のひとつに、向こうではローンが通らないということがあります。その問題があるため、若い人たちにとってハーレーが魅力的ではなくなってしまったのではないか、と思います。

ー他に何かアメリカに行って変わったことはありましたか。

濱田 ●そうですね、日本語がおかしくなりましたね(笑)。住んでいた近所にはメキシカンとヒスパニックの飲食店しかなくて、店に行けば白人ばかり。5年間日本語とかけ離れた生活を送っていたので、帰国してからはなかなか舌がまわらなかったんですよ、本当に。豆腐って言えなかったんです(笑)。それくらいギクシャクしていました。

ー最後に、濱田さんの格言を教えてください。

濱田 ●ベタだけれど、「何かをするなら最低3年」。3年とか5年とか、とても区切りがいいじゃないですか。例えばどんな店に入っても、最低3年はいないと意味がない。だから、最初の店も次の店もだいたい3年ほど働きました。その一言に尽きますね。

ーでも、アメリカはちょっと長かったのでは。

濱田 ●そうですね、ちょっと居心地がよくて…。日本に戻ってきて今でちょうど4年になるんですけど、最初の3年間は本当に大変でしたね。やっぱり区切りは3なんですよ(笑)。

プロフィール
濱田 康司
1972年生まれ、ハマーサイクル代表。18歳からハーレー専門店で働き始める。東京都内にある2件のショップを経た後、27歳のときに単身渡米。カリフォルニア州南部のリペアショップで約6年修行し、2005年に地元の茨城県土浦市にハーレー専門のカスタムショップ「ハマーサイクル」をオープンさせる。

Interviewer Column

濱田さんに初めてお会いしたのは、確か僕が以前働いていた職場のオフィスだったはず。当時(たぶん濱田さんは22歳とか)からかなりのロン毛で、ヒゲをボーボー生やしていて、年上である僕に偉そうに大声で話していたような印象を持っています。東京のショップ「リトルウイング」に入って頑張っているのは知っていたけれど、いきなりアメリカに行くと聞いて、気づいたら消えていて、「元気かなぁ」なんて思ってたいらいきなり日本に帰ってきていて。なんだか僕的には蜃気楼や陽炎じゃないけど、フッと通り過ぎていく感じの人でした。でも、今は違います。牙城を構えてドンと座っていて、そして(たぶん)何ひとつ悪い噂が流れていない珍しいショップのオーナー。共に頑張ろう、この楽しい業界が活性するよう、消えてなくならぬよう!

文・写真/佐々木孔一朗

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