VIRGIN HARLEY | 矢代 貴充(BLUE GROOVE) インタビュー

矢代 貴充(BLUE GROOVE)

  • 掲載日/2011年06月29日【インタビュー】

ハーレーインタビューの画像

ミュージシャンなどさまざまな顔を持つ
七里ヶ浜のショップオーナーに迫る

1960年代から70年代のスタイルをベースに、ナックルやパンなどの旧車から現行モデルまで幅広く手がける鎌倉のカスタムショップ「BLUE GROOVE」のオーナー矢代 貴充。ミュージシャンとしての顔も持つ彼は、ビルダーというよりはプロデューサーといった趣で、ハーレーが持つ古き良き文化と鎌倉ならではのローカリズムを融合させた“レトロフィット”なるテイストをベースに、日々創作活動を展開している。「後の世代に残していける“ぬくもりのあるもの”を手がけていきたい、と思っています」という矢代の世界観を形成する源とは何なのか。読み終えたときに BLUE GROOVE に足を運んでみたくなる彼の内なる声をお届けしよう。

Character

鎌倉に居を構えるカスタムショップ「BLUE GROOVE」オーナー。出身は横浜市で、音楽一家だという母や親族の影響から、若くしてミュージシャンを志す。17歳のときにはミュージシャンとしてギャランティをもらい演奏するまでに。その後、1989年式 FXSTC ソフテイル・カスタム からハーレーライフが始まり、ハーレー純正アパレルを手がける会社勤務時に1953年式 FL パンヘッドへと乗り継ぐ。23歳のときに「自分のショップを持とう」と一念発起、2002年に現在の BLUE GROOVE をオープンした。現在はミュージシャンやデザイナーとしても活動の幅を広げている。「バイクショップというよりは、音楽やファッションなどを含めたトータルでのライフスタイルを提案するプロデュースカンパニーです」と語る。

矢代 貴充 / TAKAMITSU YASHIRO

Interview

音楽とともに生きた10代を経て
ハーレーの味わいも楽しんだ日々

ーミュージシャンとしての顔も持たれているとか。

矢代 ● 母方の家がアーティスト一家でね。祖母が詩人で祖父は高校の校長先生でした。伯父はもともとジャズギタリストで、現在でも作曲家として活躍しています。叔母はハモンドオルガンの先生でした。北海道・函館にある伯父の家はスタジオになっていて、親族が集まると皆楽器が出来るので夜遅くまで一家で大セッション会が設けられるほどなんです。父親も音楽や洋画好きでした。子供の頃は父親とソファーに腰掛けて、1970年代のアメリカンムービーを観ていたのは今でもよく覚えていますね。それに父はとても手先が器用で、家具を作ったり絵画も得意でした。

ーまさしく音楽一家ですね。

矢代 ● 母はレコードで色々な音楽を聞かせてくれたり、コンサートへ連れて行ってくれたりしました。小学生の頃にジミ・ヘンドリックスを最初に聞かせてくれたのも母親でした。当時は油絵を習っていたんですが、アートや音楽に関しては自然に親しむ環境が出来上がっていたと言えますね。

ー幼少時代から音楽とは密な関係だったんですね。

矢代 ● 13歳のときからギターを始めまして、17歳のときには憧れのミュージシャンの前座として演奏し、ギャランティももらっていました。

ー高校生のときに?

矢代 ● ええ。それまでは横浜周辺のライブハウスで行われるジャムセッションに通っていたんですが、その時あるミュージシャンが「東京にいい場所があるから、連れて行ってあげるよ」と、都内のライブハウスに行くようになったんです。そうしたら、とあるライブハウスのマスターが僕のことを気に入ってくれて、「ミュージックチャージ代はいらないから、好きなときに演奏を聴きにおいで」と言ってくれまして。それからそのライブハウスに通う日々が始まりました。

ー音楽を目指す人間にとってはこの上ない環境ですね。

矢代 ● 当時僕のような年齢でブルースギターを弾くやつがいなかったからか、多くの大人にお世話になりました。当然帰りの電車はないですから、車を出してくれる方や必ずライブの写真を撮ってくださるフォトグラファーの方など。おかげで当時、日本人のギタリストでもっとも尊敬するミュージシャン(師匠と呼んでいます)のライブにもよくお邪魔させてもらったりしました。そのライブハウスでは月に一度の決まった日に、一般客が帰ったあと、その日に出演したミュージシャンが中心となって名だたるメンバーで朝までジャムセッションが繰り広げられるのですが、ちょうどその尊敬するギタリストがセッションする日をマスターが教えてくれて、「この日に来たら絶対に一緒にセッションできるから、必ずおいで」と。で、幸運にも一緒にセッションができ、そこで気に入ってもらえたことから師匠の前座をさせていただけることになったんです。しかもその日は、僕のギターヒーローの一人であるスティービー・レイボーン(SRV)の命日でもありました。師匠はSRVと何度かセッションをしていたことがあり、そのことを伝えると「あいつは、そうやって後世に音楽を伝承するやつだったよ」と語ってくれました。

ー音楽浸りの毎日を送りながら、若者らしくバイクにも興味を持ち始めた時期だったとか。

矢代 ● ちょうど渋谷・原宿を中心としたアメカジブーム真っ只中の頃でもあって、国産バイクをカスタムしたりしながら遊んでいました。仲間内ではアメリカンに乗る友人も多くて、「いつかはハーレーに乗る!」なんてよく話したりしたもんです。セッションでライブハウスに行くとハーレーに乗ってくるミュージシャンがいたりして、そのカッコよさに惹かれたりしましたよ。音楽が生み出す空気感とハーレーが持つ雰囲気がマッチしているな――、そのとき、そんなことを思ったりもしました。

ー10代でさまざまなことを体験されたんですね。

矢代 ● 本当に、いろんな大人に良くしてもらえた10代だったと思います。その世界では年齢や地位などは関係なく、リスペクトさえあれば対等に付き合えることも音楽を通じて教わりました。そしてそのときから、「ひとつのことに打ち込んでいれば、願いは必ず叶うものなんだ」と確信するようになっていました。

ーバイクの方はひと区切り?

矢代 ● それが18歳になったときに、ハーレーにどうしても乗りたくなって。しかし高い。この先ミュージシャンとして食っていくことはできても、ハーレーに乗るためにミュージシャンのギャランティで手に入れるとなると何時の事になるかなと思い、それまで待つことができませんでした。そこで、そのときは何よりもハーレーがあふれる環境に身を起きたいと思うようになり、ハーレーのメカニックになりたいという想いもあったのですが、洋服が好きだったこともあって、当時ハーレーの純正アパレルを手がける会社「H.D.C」(現在はハーレーダビッドソンジャパンに吸収)にアルバイトとして入りました。それから社員、店長と5年ほど勤めたんです。

ー意外な経歴ですね。

矢代 ● もちろん個人的に音楽は続けていたけど、一気に「ハーレーの世界にのめり込み深く知りたい」と思うようになりました。それで19歳の時に1989年式 FXSTC ソフテイル・カスタムを購入しました。

ー人生初のハーレーがソフテイルですか。

矢代 ● 当時から古いものが好きだったので、ショベルヘッドあたりの年式に乗りたかったのですが、予算のことなどを考えソフテイルに決めたんです。それでもメンテナンスなどはなるべく自分でやるようにして。当時のショップの1階がH-Dディーラーだったんですが、メカニックのスタッフに教わりながら夜な夜なエンジンを開けて、腰上のオーバーホールなどを自分で行っていましたね。外装のカスタム等は実家のガレージでやっていました。その頃になると地元の仲間もハーレーに乗り出すメンバーが出てきて、時間があるときは仲間のバイクも手がけるようになっていました。ところが社内にはナックルヘッドやKモデルのスポーツスターに乗る先輩やMOTORCYCLE DEN でフルカスタムしたショベルヘッドに乗っている先輩もいて、よりハーレーらしい鼓動を求めたり、そうして知識をどんどんつけていくうちに、今度は自分でも旧車に乗りたくなって。その後 1953年式 FL パンヘッドに乗り換えました。

ー早い乗り換えですね(笑)。

矢代 ● この時期に職場の先輩方には、徹底的にチョッパーカルチャーを叩き込まれまして、気持ちが完全に旧車に行っちゃっていたんですよ。音楽の世界では「短期間でいかに深く掘り下げていけるか」を実践していたので、割とすんなりと入り込めました。かなりショートカットでハーレーに対する知識、ハーレー業界の人脈が付けられました。旧車自体もそうですけど、それに乗る人物にも惹かれていました。その頃の旧車乗りは今とは比べものにならないくらいのキャラクターの持ち主が多かったですから、ある意味いい時期の渋谷、原宿界隈のTOKYOスタイルのハーレー乗りのコミュニティを自分なりに体感できたと思います。でもその後、やはり今度は音楽が恋しくなってきて。それで22歳のとき、会社に約一ヶ月ほど休暇届を出して、ギター一本持ってアメリカ・ニューオーリンズに飛んだんです。

ーどうして渡米しようと思ったんですか。

矢代 ● 19歳のときニューヨークに行って以来2度目の渡米だったんですが、このときは一人で行き自分のギターの腕を試してみたくなったんです。自分自身への挑戦がしたかった。ニューオーリンズに決めたのは、僕の師匠がそこで音楽活動を続けていたからなんですが、情報を手に入れては夜な夜なクラブやライブハウスを渡り歩いて演奏させてもらえる場を探していました。アメリカの音楽を日本人が演奏するわけですから、音を出すまではなかなか相手にはしてもらえない。しかし一度音を出して認めてもらえると、そこには人種の壁は当然なく、お互いリスペクトの気持ちで受け入れてもらえます。すると「明日は何処そこでセッションがあるから来い!」となるわけです。明くる日、そこのアドレスが書いてあるメモをタクシードライバーに渡すと、「本当に(こんな危ない場所に)行くのか?」なんて言われながらも、真夜中から始まるジャムセッションに向かうわけです。普段観光客が来ないようなディープなエリアでこそ本物のニューオーリンズミュージックを体感できたと思います。

ー 師匠とも再会できたんですね。

矢代 ● ええ、当時のマガジンストリートの部屋に泊めさせていただいて、本当に刺激になる話を聞かせてもらって、いろんな想いを胸に帰国したんです。

バイクだけでなく音楽やファッションなど
ライフスタイルそのものを追求する

ー帰国してからは、再びHDCでの日々を?

矢代 ● アメリカから帰ってきて思ったことは「自分に何ができるんだろう」ということでした。師匠は本場アメリカで音楽活動を続け、大きな賞を受けるほどの世界で認められたミュージシャンです。「じゃあ自分は?」と自問自答を繰り返し、考え抜いた結果「再びアメリカに行って音楽をやることか、日本で自分のショップを持とう」という二つの選択肢が出来ました。HDCでの勤務経験から、店舗の運営、商品の企画やデザイン、顧客管理などひと通りの経験をしていたこともあり、自分が理想とするハーレーのスタイルを追求していきたいという強い想いもありました。

ーそれで BLUE GROOVE をオープンされたんですね。

矢代 ● 2002年2月のことですから、来年2月でちょうど丸10年になりますね。24歳だったあの頃、愛車のパンヘッドを手放したり、開業資金などの目途が付いたタイミングで、店を持つ見通しが立ちました。結局は音楽の旅に出た事が、自分の店を持つというアイデアに繋がった旅だったんですね。その後はロケーションもいろいろ検討した結果、鎌倉の海沿い、前店舗の七里ヶ浜に決めて……今振り返ってみても間違いではなかったという実感があります。このときも、10代の頃から良く通っていた稲村ヶ崎にある COFFEE SHOP TARO’S のオーナー シゲさんなど多くの方々のお世話になりました。

ーところでこの「BLUE GROOVE」という名前の由来は何なんでしょう。

矢代 ● よく聞かれるけど、あまり言ったこともないんですけどね(笑)。「BLUE」というのは、ジャズやブルースの世界で“選ばれし音”と形容される blue note (ブルー・ノート)から引用したものです。ハーレーという独特の伝統を持つバイクを選んだ意味を求めたくて、掛け合わせたんです。そして「GROOVE」ですが、ある程度の経験を持つ者同士がうまい流れのなかで表現し合えることを音楽の世界で 「GROOVE」 と言うんです。

ーまもなく10年を迎えるわけですが、振り返ってみていかがでしょう。

矢代 ● いつも思うことは「鎌倉に居を構えて良かったな」ということ。

ーと言うと?

矢代 ● こうして鎌倉で暮らしていると、世の中の流れが見えるんです。都内からでも1時間で来れる場所柄、鎌倉には観光客を含めて毎日多くの人が“いやし”を求めてやってくるわけですが、訪れる人たちの年齢層やファッション、クルマとナンバー、などを見ていると今の流行が手に取るように分かるんです。

ーそれを BLUE GROOVE にどう取り入れているのでしょう。

矢代 ● 流行を取り入れた上で、ハーレーというバイクをもとにどんなライフスタイルが提案できるのか、常に考え続けていますね。それは流行に流されるのではなく、人々がどんなところに興味を抱いていて、そのポイントとBLUE GROOVEの手がけるハーレーをどう結び付けられるのか、BLUE GROOVEの役割について考えるということです。

ー鎌倉だからこそ見えるものがある、と。

矢代 ● そう。また自分が愛するオールドスクールというスタイルが町とフィットすると言えますね。それは鎌倉が持つローカリズムです。この街はサーフタウンとして有名で、さらに古き良き雰囲気を大事にする文化も持ち合わせています。インターナショナルでもあり、ちょっと日本離れした雰囲気もある。そうしたイメージに1960年代から70年代にかけてアメリカで生み出されたカスタムカルチャーを融合させ、現代ならではのアクセントを取り入れる――それが、過去と現在を繋ぐ“レトロフィット”という自分が打ちたてたフィロソフィー(哲学)による一台となっていくんです。こうなってくると、ただハーレーをカスタムするだけにとどまらなくなるんですよね。ファッションや背景に流れるであろう音楽なんかにも想いがおよび、結果としてライフスタイルそのものを演出するプロデューサーのような内容になってきますよね。

ー次の世代へと残る何かを手がける、ということでしょうか。

矢代 ● そのとおり。それが出来て初めて成功したと言えると思います。人の心に響くものが生み出したい、ぬくもりのあるものを大事にしていきたい、という、僕が音楽から学んだものが源になっていると言えますね。もちろんカスタムは“いかにオーナーが満足できるか”という点に尽きますが、例えば街を流しているときにベテランライダーやバイクにまったく興味のいない人までもが「おっ」と思わず目を向けてしまうような、そんなプラスアルファをもたらしたいと常々思っています。

ーカスタムを手がける際にもっとも重視しているところはどこでしょう。

矢代 ● その人(オーナー)のキャラクターやファッション、音楽の好みなどを分析して、その人が10年先まで楽しみ続けられるようなスタイルを提案すること。そういう意味では BLUE GROOVE のカスタムに派手さはないでしょうが、長く愛されるバイクにまとめられるという自負はあります。そういう意味では、今ハーレーに乗っている人はもっと自分自身のアティチュード(考えや姿勢)をハッキリ出しちゃっていいと思います。ハーレーから始まるアイデンティティ、それもまた良し、ですよ。自分のなかにある何かを解き放ってくれるツールでもあるわけですからね。

Interviewer Column

「ピュアな人」というのがインタビューを終えたときの感想だった。音楽が好きでのめり込んでいった10代の話にはじまり、ショップをオープンして現在に至るまでの情熱や苦悩などを赤裸々に語ってくれるなど、同年代とは思えないほど無垢なハートを持つ人だと感じ入った次第だ。文中でも語っているとおり、 BLUE GROOVE が手がけたカスタムバイクはノーマルフォルムを前提にオールドスクールテイストにまとめたものがほとんどで、一見すると派手さはないが、間違いなく長く愛し続けられる一台に仕上がっている。もちろんその中には矢代さんらしい「おっ」と目を向けてしまうアクセントも含まれていて、“レトロフィット”という言葉に納得させられるところも。もし今後、僕が新たにハーレーを増車することがあれば、間違いなく BLUE GROOVE は選択肢に入り込んでくるだろう。そのときはヨロシクです、矢代さん。

文・写真/VIRGIN HARLEY.com 編集部 田中宏亮

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